シャルロット・ぺリアンとそのモダンデザインへの貢献
モダンデザインの時代には、たくさんの素晴らしいデザイナーが誕生しました。そのうちの一人がシャルロット・ぺリアンです。先見性のあるデザイナーだった彼女は、20世紀初期、美的価値が大きく変わったアバンギャルドムーブメントの中で積極的に活動しました。
ル・コルビュジエのデザインが名声を獲得し有名になったのは、シャルロット・ぺリアンのおかげです。彼女のモダニスト的ビジョンが、このスイス人建築家のアイコニックな建物を補完するインテリアを生み出すことを可能にしたのです。
建築家やデザイナーといった職業が男性のものだと考えられていた時代、女性の建築家というのは画期的以外のなにものでもありませんでした。ですが、このためシャルロット・ぺリアンの名は、パイオニアとしてというよりはル・コルビュジエのスタジオのアシスタントとしてしか知られていませんでした。
とはいえ、彼女はモダンデザインにおいて非常に重要な役割を果たし続け、アバンギャルドムーブメントの推進力となりました。彼女のデザインはル・コルビュジエの空間にユニークなタッチを加えることとなりました。それまでは、他のデザイナーの作った家具を単純に使っていただけだったからです。
「家の中の設備でなくてはならない要素とは何でしょう? 答えは簡単で、それは収納なのです。しっかりと計画された収納がなければ、家の中にスペースを見つけることは不可能だからです。」
-シャルロット・ぺリアン
人生とキャリア
ぺリアンは1903年パリに生まれました。両親は仕立て屋と高所得者相手の裁縫士でした。1920年、L’Union Centrale de Arts Decoratifs(装飾美術連合学校)に入学し、5年間家具デザインを学びました。
研究の終わりになっても、彼女は学校で教えられていた木工技術と古典的装飾様式の組み合わせに疑問を抱いていました。その結果、機械時代の美学、モーター車両やその他の当時出てき始めていた新しい機械にインスピレーションを受けるようになりました。
24歳になるまでに、デザイン界でその名を轟かせ始めるようになっていました。彼女の成功は高い評価を得たBar sous le Toit(屋根裏のバー)のおかげです。これはアルミニウム、ガラス、クロムでできており、1927年にサロン・ドートンヌに彼女が発表したものです。
ですが、ぺリアンの人生とキャリアの転換点となったものの一つは、彼女がル・コルビジエのスタジオのドアを初めてたたいた時でした。初めて若いデザイナーだった彼女がスタジオを訪れた際、ル・コルビュジエは「ごめんね、ここではクッションの刺繍はしていないんだ」と彼女に言ったそうです。そして目の前でドアを閉じたといいます。
しかしこれで納得する彼女ではありません。そんなことは全くなく、その一か月後、彼女の作品Bar sous le Toitを見たル・コルビュジエは、彼女を雇うことにしたのです。それから彼女はル・コルビュジエやピエール・ジャンヌレと10年以上も共に働くこととなるのです。
ル・コルビュジエのスタジオでは、シャルロットはインテリア長を務めました。1928年にはスイスの建築スタジオのために3つの椅子をデザインしています。
それぞれの椅子にはチューブ状の鉄のフレームがついており、それぞれ異なる目的を持っていました。B301は会話のための椅子、LC2は快適さとくつろぎのためにデザインされたもので、B306はシェーズロングで、寝るためにデザインされたものでした。
シャルロット・ぺリアン-デザインの哲学
シャルロットは自分のデザインは現実世界と、その空間にいつか暮らすことになる人々のニーズに合ったものであるべきだと信じていました。彼女のインテリアの背景には人々の毎日の生活を楽にしたいという考えがありました。美しさをもたらしつつカオスにならないようにするという、明らかな自由な感覚が彼女の作品にはあります。
政治や経済にも大いに関心を持っていた彼女は、上流階級向けの豪華で巨大な家を求めてはいませんでした。反対に、歴史の中のその瞬間に重きを置き、その当時人気のあった共産主義の信念に注目していたのです。
このような信念があったため、誰もが、あるいは少なくともできるだけ多くの人の手に届く建築やデザインの発展をしようと彼女が思うに至ったのです。
彼女は家から始めて世界を変えたいと願っていました。彼女のインテリアはソーシャルハウジングから労働者階級の家まで、とてもせまい空間にも合うようなデザインになっていたのです。
同じ信念は彼女がデザインの中で使った素材にも表れています。すべての人が手に入るようなものだけを選んでいたのです。彼女の家具をより手が届くものにするため、鉄やレザーの代わりに木や籐を使いました。
彼女のデザインは、モジュールハウジングや既成の家などへの関心も合わさったものです。この二つの概念を使い、コストをカットするとともに作品をより多様なものにしていきました。
シャルロット・ぺリアン-新たな影響
第二次世界大戦にナチスがフランスを占領したことで、シャルロットは避難を強いられ、日本に亡命することになります。ドイツ兵がパリを占領した日、彼女がマルセイユを後にしました。しかし、戦争は日本にも及んだため、今度はベトナムへと移ります。
これらの禅や仏教などの経験が、彼女の作品に新たなインスピレーションを与えました。使えるようになった新しい素材を用い、彼女は自身のキャリアの実験的ステージへと入っていくこととなりました。
シャルロットは1999年、96歳で亡くなりました。死の直前まで積極的に活動し続け、亡くなる前年には回顧録を出版しています。『シャルロット・ペリアン自伝』の中では、空間と家具のデザインに捧げた彼女の人生について明らかにされています。そして彼女のデザインは今日も制作されているのです。
シャルロットはモダンデザインを新たな方向へと導きました。彼女は形式や人類工学、機能性といった側面を、デザインを担当したあらゆる空間で熟考するのを好みました。しかしあらゆる理由で、ル・コルビュジエのスタジオの同僚の影となり、スポットライトの外に立たされて生きてきた人でもあります。